前回往路編で無事仙台到着。

翌日仕事は保険対応工事で業者と私と保険屋さんで現場完了の立会だけでしたので8:30開始で9:00には完了!!

いざ!!復路!!昨日の私のめぐり合わせ運を取り戻すために東日本大震災原子力災害伝承館へ!!!

開いててよかった!!

ということで入場料を払って揚々と入場

一番初めに5分程度の映画を見るのですが会場がすごい近未来的でびっくり!!

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マジ宇宙船!?おれアブダクトされちゃった??

と瀟洒な冗談を言えたのはここまででした。

映像が始まり、柄にもないですが涙が出ました。

今を去ること10年前の当時の自分のことがフラッシュバックするというか去来するというか・・・・



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まず携帯電話が全く使えなくなりました。回線パンク状態です。現場とも連絡がつかず、たまたまその日会社にいた私はいそいで帰宅、次男は窓全開で揺れながらwiiやってました。。。近所のお母さんが祖手で遊んでいたせがれに家の中に入るよう促してくれていました。

長女は公園で遊んでいたところを地震に遭い、すぐ戻ってきました

長男は小学校卒業の謝恩会の途中で帰ってきたことを覚えています。

そしてすぐ燃料不足・・・

現場に移動するためのトラックの燃料が無くてこの先どうしたらいいのか?なんてこともありました

たまたまポリタンクで少々軽油の備蓄があったのですがそれもあっという間につき、しかしお客さんからの電話は私の携帯になり続け、何とか現場に行きたくても当時道路も液状化で走れなくなったりということが思い出されました。

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原発の建屋が爆発したときは本当にこの後どうなるのだろうか?と心配しました。

当然楢葉町も退去しなければならない地域になりましたが本家とも連絡が取れない状態でしたし、連絡のすべもなかったです。



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当時菅(かん)総理がむやみに原発に乗り込んでいった姿を見て

「こんなにも緊急事態の状態なのに素人が現場乗り込んでどうなるんだよ!!」
と怒りを感じたのを思い出しました。

国家の危急を政治利用するカスが!!と憤慨しました。
本当に当時人的な災害という意味でも暗黒の時代だったと思います。

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これも社会問題になったのを覚えています。

東電の補償金目的のカツアゲをして自殺した事件もあったと記憶しています。

人の心の醜さよ。。。と人の世のむごさを感じました。
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この後当時の写真の展示などあったのですがとても写真なんか撮れませんでした。DSC_0113

熱くなる目頭を押さえても抑えてもこみあげてくる思いが止まりませんでした。

伝承館を出てしばらく6号線を走ってきました

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道中第一原発付近からの国道の民家や商店は立ち入り禁止の廃墟状態でした。

まだ福島のこの一帯は10年前より震災は終わっていないということを痛感しました。

最後に・・・・

打瀬の道場で震災の経験のない子供たちが増えてくるぐらい10年という月日は長いものです。
しかし実際の被害に遭った地域は「復興」という言葉より「まだ被災中」という言葉がしっくりくるのではないかと思うほど東京~福島という地域による温度差があるのだなと痛感しました。

かといって偉そうなことを言っても私自身、何かをしてきた訳もないですが改めてそのまま「大変なことだったんだよ」と言いつつ過去として風化させるのではなく、なるべく語る次ぐ機会があるのであれば次世代へバトンとして渡して上げれるといいなと思います。
受け取る側に興味の有る無しは別の話として・・・・・

ちょっと真面目な話題でしたので次回はまた神社いっときますか?!

仙台でもちゃんと神社参拝したので乞う!!ご期待!!!

・・・・・・需要無いかな?